体育の残滓で胸が痛む。昨日あの子に尋ねられたときにはちょっとだけって言ったけれど、どうやら遅れてやってきたみたいで、今朝からずっと疼痛が響いている。

あの子にとっては無数に交わす言葉の中のひとつにすぎないとしても、俺にとってはひとつひとつが輝いていて見えていて、それを要らない情報で薄めたくないからなおさら人と話すのを避けるようなきらいがある。

「おはよ!足の筋肉痛大丈夫?」

「足は全然やけどここ(腕の付け根)がちょっと痛いかな」

やっぱりその後は覚えてないや。どうせ大したこと話してないだろうし。けれど、君の方がずっと華奢なのに心配する言葉のひとつもかけずに離れたことには後悔している。なぜだか君と話してる時だけ時間が早送りみたいに感じて、幸せなはずなのにその時間を早く終わらせたくなる。きっと君が眩しくて目が眩むのに耐えられないんだと思う。

11階のベランダから地上まで一つも遮るものはないから、地下鉄の駅だって鮮明に見える。空の端が赤く染まる頃になると、下校する高校生の声と離散するカラスの鳴き声がないまぜになって聞こえる。誰かが別れる声を聞くと自分まで寂しくなる。

どれだけ幸福の中で酔っていても足を踏み外した拍子にそれは容易く覚めてしまう。そしたらひとりの時間は憂鬱になる。いつしかひとりの時間が、誰かに会うまでの空き時間のようになりつつある。

「女は、自分の運命を決するのに、微笑ひとつでたくさんなのだ。」という文章の意味するところが今ならわかる。彼女は傾城の美人で、時代が違えどもこうして誰かの心を揺るがしていたのだろうと思う。

彼女にとって、僕は無数にいる男性の中のひとりに過ぎない。それに何の気なく優しく接して、軽い気持ちで愛想を振り撒いているだけなんだろうけれど、彼女が綺麗に見えている自分の心の鏡にはとても、そんな風には映らないようだ。

彼女の美しさは無差別に人の心を照らす。ふつうなら好意を持つ相手にしか発することができない輝きを、彼女は微笑み一つで容易く放ってしまう。そして、その可憐な容姿とは対象的に声は鋭く、淀みなく並ぶ言葉の粒が聡明さを伺わせる。

「 誰の細君になるのだろう、誰の腕に巻かれるのであろうと思うと、たまらなく口惜しく情けなくなってその結婚の日はいつだか知らぬが、その日は呪うべき日だと思った。」

この文章とは異なる気持ちであることは明確にわかる。これは美に対する崇拝であって、対象が誰の手に収まることも畏れ多く感じられる。己の手で干渉したいという衝動すら生まれずにひたすらに見惚れることしかできないし、見惚れることだけを望むのだろう。

けれども俺は彼女の幸せを未だ願える状態にない。彼女の内面も過去もほとんど知らないからどんな幸せを願えばいいのかもわからないし、それに共鳴することだってできない。それなのに磁石みたいに心が引き寄せられて、ただ接近した心の距離の中で適切な行動が見当たらずに狼狽える。彼女に出会わなければ畢生、鮮やかに彩られた日々を、世界を、愛せなかっただろう。けれども彼女の時間が色褪せることもなかっただろう。やはり恋とは契約なのかもしれない。本当の右目を失うことを代償に、愛しい人のことだけを見つめられる右目を与えられるような。

love n. 自分自身については何一つ知らないうちに、他のものについて多くを思う愚行。